コミュニケーションの境界線

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茶道において、扇子は様々な場面で用いられる。

お茶室に入る際には、自分と空間との間に扇子を置き、敬意を込めて一礼する。その他にも、掛け軸やお花、棚などを拝見する際、ご挨拶の場面でも同様に、自分と相手との間に扇子を置く。

「以心伝心」の精神の元に、親密な意思疎通が行われる場だからこそ、「ポータブル境界線」である扇子を用い、あえて違いや距離を示すことで、敬う心を伝える。

この至って柔軟で趣深いコミュニケーションの作法には、日本文化の美しさが凝縮されいる。

長い海外生活の中で、「コミュニケーションとはそもそも何なのだろう」「私と相手の間にある壁は何なのだろう」と深く考えさせられる場面を幾度となく経験してきたが、この意思疎通に関する切実な想いが、私の価値観を大きく変えたように思う。

言葉の不自由さよりも深刻に感じたのは、会話のコンテンツについていけないことだった。

様々なトピックに関して自分の知識レベルや経験値が至らなかったり、文化的・宗教的・歴史的な背景の違いが大きすぎて相手が話していることが理解できなかったり、たとえ理解できたとしてもそれに対して何も返せる球を持っていないことに気付かされた。

また、日本でも数多くの「言っていいこと、悪いこと」があるように、当然それぞれの国や文化で大きく異なるモラルがある。

「言葉」以上に大きな壁がある。それは居心地の良い島国日本を離れたからこそ分かったこと。

日本の学生との質疑応答の場面で「言葉の壁はどうやって乗り越えたんですか?」と聞かれることがある。日本でよく耳にする「言葉の壁」に遮られ、そのすぐ後にある、さらに大きな壁の存在が見えていないケースが多い。

世界中のどんな場面においても常に「自分 対 相手」という会話の構図は同じで、意思疎通のレベルは相対的に測られるもの。そこで用いられる「言葉=ツール」の違いは、様々な指標の一欠片でしかない。

言葉というのは、自分と他者との間にある壁を超えて意思疎通をするための最も直接的な道具、つまり「はしご」のようなもの。

もちろん、高性能な立派なはしごをいくつも持っていれば、様々な壁を乗り越えやすいことは間違いない。直接的な意思疎通が出来る自分の庭は国境を越え、広がってゆく。そしてその広がりは、そのまま可能性の広がりとなる。

また、言語は文化の結晶であり、言語を学ぶことからその土地や人々の様々な特性を汲み取ることができる、という意味では、言語を学ぶ価値は大いにあると思っている。

しかし、意思疎通のツールとしての言語よりもはるかに重要なのは、「その壁を超えて相手に伝えたいコンテンツ」を持っていること。

何語で話すかよりも、何を話すかの方が大切で、そこにあるのは「コンテンツの壁」であり、「言葉の壁」ではない。

そのためには、独自のコンテンツ、即ち知識・教養、経験・体験などを元に育んだ、他の誰でもなく自分が伝えたいことは何なのかをしっかりと意識し、積極的に磨いてゆくことが必要になる。

ピカピカのコンテンツを持っている人のところには必然的にオーディエンスが集まり、言葉が通じなくとも、通訳や翻訳機能を用いてでも話をしたいと思ってもらえるものだ。

テクノロジーの進歩のおかげで、「言葉の壁」がコミュニケーションの障害ではなくなる未来が近づいてきている。近年の自動翻訳の精度の高さと速さには驚きすら覚える。

では、「言葉の壁」がない世界を楽しく生きていくために、何が必要か。何から始めようか。


私は、「好きなこと」からはじめてみた。

気になることがあれば、片っ端からとことんやってみる様にしている。

そうすると、向き不向きなど自身の性質だけでなく、学びたい事、知りたい事に自然と意識が向くようだ。

出会う人やものへの興味・関心・好奇心も高まり、自分が相手から知りたいことが何なのか、具体的なイメージを描ける様になった。

そうすると必然的に「質問」が生まれ、それを伝え、返答をもらい、また考える。そしてまた新たな疑問やトピックスが出てくる。

議論の中で触れる他者の知識や思想は、自分の中で発酵し、結びつき、かたちを変え、いつしか自分のものとなる。

一期一会のひと時の中で、自分と相手の共通点や違いを見出し、理解を深めたいという姿勢を意識するだけでも、得られる情報の精度が変わってくる。

華々しい学歴や職歴、評価や流行ばかりを気にして、失敗をしない様に頭も手もいっぱいになってしまっては、本質的な自分の興味や関心がどこにあるのか、何を面白く思い、深めたいと思うのか、自分自身や周囲に対して耳を傾ける余裕がなくなってしまう。

日本の現代社会の風潮が作り出した実体のない「あるべき姿」や「目指すべきゴール」に縛られず、もっと自身の奥深くにフォーカスし、自分を知ることが大切な第一歩となるのではないだろうか。

興味・関心・好奇心を寛容に受け入れられる社会の在り方が、心身ともに健全な人間性を育てるという事実は、スウェーデンからもイタリアからも感じ取ることができるが、日本はどうだろう。

未来の日本人が臆することなく力強く世界で生きていくために、いま出来ることは何だろう。

歴史を振り返れば、我々の先祖は、古くから現在に至るまで世界を魅了し続ける日本文化を築き上げた。

自と他の境をしっかりと意識した上で、扇子一つで敬う心を伝え、さらに深いレベルでの意思疎通を嗜む。

そんな極めて高度で、繊細かつ美しいコミュニケーションの作法を体現した先駆者たちから学び、世界中で日本人、日本文化が輝く未来の実現に向けて、非力ながらも出来ることを探求・実践してゆけたらと思っている。

Written by
Haruka Furuyama